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素晴らしい動画。こうやってあまり知られていない偉人、日本発展に貢献した人物をもっと我々は知るべき。
@@joedaisuke7560 コメントありがとうございます。大変励みになります☺️小栗忠順を知って頂けてうれしいです。このような偉人をまたご紹介させてください!
戊辰戦争にとても心を惹かれます。幕府に忠義を尽くし破れた人たちの立派な生きざま。本当に惜しい人たちを失くしたと思います。日光の大笹牧場へ行く途中に六方沢橋という大きな橋があり、説明板に、幕府側の武士たちが見つかるのを恐れて,街道ではなく橋の下の山中を歩いて会津に向かった、ということが書かれ、季節は寒い時期だった。それを見た時も胸が塞がる思いでした。
@@山さくら コメントありがとうございます。私も戊辰戦争や、幕府に忠義を尽くして散った人たちの生き様に心惹かれる1人です。説明板にそのような記載があるのですか…寒さが自分の身にも感じるような気になり、情景が思い浮かびます。貴重なお話を教えてくださり、大変ありがとうございます。
我が家は会津藩士です。私の曾祖父は禁門の変で戦いました。曾祖父の手記には「長賊と…」という表現があります。会津籠城戦いでは高祖父が戦死。落城後は下北に移されましたが、そこでの暮らしは厳しく、妻子は病死。函館に移りました。
家老を輩出し続けた名門の出である大蔵。結果的に負け組ではあっても、その地位と実力に相応しい人生だったのではないでしょうか?「矜持」そんな言葉が最も似合う人ですね。また、妹の捨松さんも津田梅子と協力して女子教育に邁進したのは有名ですが、逆境の時代にそれぞれの立場や性差を超えて活躍されたことは素晴らしいことです。私は県民として山川一族を誇りに思います。
@@wisterieskampf6554 コメントありがとうございます。福島の方でしたか!素晴らしい人達だと思います。もっと知られて欲しい、一族ですよね。
素晴らしい内容のものでした。激動の時代に身を捧げた方々の息遣いが令和の御代にも聞こえてきます!私がいるばにも大山巌のぼちがありそこには、山川捨て末の墓もあり静かに歴史の移り変わりを見ながら埋葬されています!😮
@@淑子東泉 コメントありがとうございます。大変励みになります☺️大山夫妻の墓地がお近くにあるのですか!激動の時代から現代につながる歴史の息吹を感じる環境ですね。
熊本地震の際、阿蘇方面の救助に参加したところ、偶然佐川官兵徫の墓を見つけました。会津の猛将が警視庁抜刀隊として、こんな山中で亡くなった事、そして立派な墓が建てられ供養されている事に驚きと日本人の素晴らしさを感じました。
@@古き日本と癒しの旅有難うございます、私は、岡崎に生まれて、名古屋で育ち、福島へ嫁ぎました。主人との縁に驚き城を巡りました。悲しい宿命に驚きながら、丹羽頼母や松平容保のその後を追い、会津や二本松のその後を調べて嫁の重責を果たして、老後の今生家名古屋に暮らして居ます。会津も二本松も名古屋も徳川からの尊い先祖が生き学び、守り築き上げた土地であり凄まじい歴史の逆流の試練があった事を、実感し、不幸を嘆き悼んで居りました。しかし会津も二本松も岡崎も地名が同じ処が多く人々も実直、剛健で親切、名誉を大切に素朴に生きている方ばかりでした。どうか悲しい歴史が温かい光により拭い去られて、共に明日の日本の若者の為に見事に再生できます様に心底より祈らせて頂きます。有難う、福島の皆様愛知の人々、日本人は未来を大切に生きます。
@@國武浩幸 コメントありがとうございます。熊本地震で応援に行かれた時に佐川官兵衛のお墓に遭われたのですか。立派なお墓が会津から離れた地でも建てられているなんて、多くの人の心を動かした人だったということなんですね。貴重なお話を教えてくださり、本当にありがとうございます。
@@遠藤純子-s3m コメントありがとうございます。岡崎、名古屋、福島とお過ごしになってきたのですね。所縁のある土地でその歴史を感じる時、自分が今生きているその流れをより強く意識しますよね。私も会津藩が守った京都が父の出身であったり、私自身も名古屋近郊で育ったりと、頂いたコメントで同じように想いを馳せることが出来ました。貴重なお話、大変ありがとうございました。
あらためて山川家の人々と山川大蔵の偉大さを知りました。ありがとうございました。そして柴五郎をはじめ、旧会津藩出身者が明治以降の歴史に影響を及ぼしたことを痛感します。
@@halbaal コメントありがとうございます。柴五郎も会津出身で明治以降歴史に影響を及ぼした人物ですよね。山川の東京での住まいに寄宿した際の柴五郎との逸話にも笑ってしまうものがありました。優秀な人が多かったということ、きちんと見ていきたいなと思っております。
容保公以下、会津藩の方々こそ、誠の忠義の人々であったと尊敬いたしております。
@@jensuis コメントありがとうございます。そうですね、みなさん、忠義の人々ですよね。もっと自分たちの藩のことだけを考えれば、巻き込まれなくて済んだのかもしれないですし、もどかしさを感じる部分もありますが、それでも最後まで義理を通した生き方に心惹かれるなぁと個人的に思っております。
涙なくして聴けません。猪苗代湖の野口英世記念館、青森下北の斗南藩跡、網走監獄での政治犯、等、近代史をしると涙が湧いてしまいます。😊
@@水木一成 コメントありがとうございます。そこで苦難の日々を過ごした人々を感じる史跡を、たくさん、ご自身の目で見て来られたのですね。貴重な思い出をお話くださり本当にありがとうございます。
会津戦争後を詳しくしりたくて拝見しました。捨松ってドラマ化されてもいい人生なんですね!!「地域間の感情対立が…」の最後のコメントに心を打たれました!!素晴らしい動画でした!!
コメントありがとうございます。捨松、私も一旦台本書いていたくらい、とてもドラマティックだと思います!(ちょっと頓挫してます・・)そうなんですよね、感情的対立・・あるのですが、それでもこのように、歩みを止めなかった人が報われて欲しいなという思いがあります。お優しいコメントありがとうございました。大変励みになります。
大変良いお話と人物を知れました!感謝します。会津君子の鏡のような方ですね。さすが保科正之の家訓を基礎にしたお家柄の藩士でした。🙏
返信が遅くなって申し訳ありません。コメントありがとうございます。責任感の強さなど、本当に素晴らしい人物だったと思います。
初めてチャンネル拝見しました。斗南藩を率いていたのが、若き山川ひろしだったのですね。会津藩出身の方たちは、私の出生地の余市や幕末は野付半島の警備隊で亡くなっていたり、全国各地で本当にご苦労されていたんですね。素晴らしい動画をありがとうございました😂
@@滝代文男 コメントありがとうございます。出生地が余市でいらっしゃるのですね!ウイスキーの町ですね。そうなんですよね、会津藩出身者は斗南藩として青森や北海道で本当に苦労されたのだと思います。その中からも活躍されたと考えるとよりすごいなぁと思って動画を作りたいと思いました。励みになるコメント大変ありがとうございました。
維新の会津藩の重いテーマに珍しい女性のナレーションでした。珍しさと違和感も解説の良さが上回り最後まで集中できました。とても良かったです。飯盛山や二本松少年隊の地を訪れた記憶も甦りました。次は小栗上野介をじっくり見させて頂きます。
@@11nisimuku8 コメントありがとうございます。まだまだ勉強中ではありますが、そのように言っていただけて大変励みになります。飯盛山や二本松も訪れたことがあるのですね。会津については、会津戦争後〜昭和にかけての鶴ヶ城についてや、白虎隊についての動画も作っております。またお手隙の時にお立ち寄りいただければ嬉しいです☺️
素晴らしい解説動画ありがとうございます。幕末の歴史を辿ると、会津の理不尽な状況は心から離れることはありません。今も遺恨が残るわけです。どうしても会津、長州、薩摩と大きな単位で考えてしまいますが、個人ではお互いを認め、尊敬していた繋がりがあった事も忘れてはならないと思います。會津藩士、秋月鄭次郎と長州藩士、奥平謙輔が繋がっていたからこそ、山川健次郎はアメリカへ留学して物理学の権威になれたわけです。その後の会津藩の人々の活躍を見ると、当時の教育レベルの高さを感じます。健次郎と捨松が英語で交わした手紙を見たことがありますが、筆記体が達筆すぎて読めませんでした(笑)
コメントありがとうございます。幕末の会津の状況は本当に理不尽で気の毒だなぁと感じます。年月が経とうとも遺恨が残っているのは感じますよね。ただ、おっしゃる通り、個人間では繋がりや敬愛の感情、感謝などが存在しているのも事実ですよね。健次郎と捨松の手紙をご覧になったのですか!筆記体が達筆すぎる兄妹のやりとり・・素敵ですね!(もしかして捨松が帰国後に愚痴をこぼしてたお話でしょうか・・・)
@ たしかその様な内容だったかと思います。健次郎が諭しているような。
まったく、知りませんでした。情けない、、とことどころ、聞いた名が出てはくるものの、ああ、その人が、そうだったのかあ、、など。非常によかったっす。
@@NETDOUGA コメントありがとうございます。私も調べながら学びながらですが、そのように言っていただけて、動画作成の励みになります☺️
丁寧な解説で大変興味深く拝見させていただきました。土佐藩士谷干城が登場しますが、彼ら土佐藩兵をを率いて会津戦争に参戦した乾(板垣)退助も、矢折れ刀尽きて遂に開城と降伏を申し出た容保公の申し入れを受け、敗将となった会津公の面目を保つよう心を配りながら礼を尽くして降伏を受け入れ、土佐藩と会津藩の間に遺恨を残さない形で戦後処理を行いました。(因みに谷干城は土佐尊王党に参加しており、投稿して来た近藤勇の斬首を主張しています。)後年の征韓論論争で板垣と谷の立場は変わりますが、政府から身を引き自由民権運動を展開する板垣と。政府に残留して西南戦争で戦功を上げ華族となった谷の第1回帝国議会での活躍はなかなか面白いので。坂本龍馬の陰に隠れがちな彼らにも光を当てていただければ幸いです。
@@skalplatoonraven コメントありがとうございます。土佐藩は松平容保の降伏の際の面子を保って遺恨を残さないように配慮したのですね。同時に、近藤勇の助命嘆願は聞き入れなかったのは、谷干城だったのですね。知りませんでした。大変勉強になりました。またよろしければお気付きのこと、ご教授頂ければ幸いです。
私の母は会津出身です。妻は東京生まれですが、義理父母は九州出身でした。双方の両親の初顔合わせ前には、義理父より、戊辰戦争の恨みはないかと確認がありました。うちの母に聞いたところ、全く無いとのことでした。今では両家とも仲良くしています。ただ、個人的に西軍が本当に意地悪だと思うことは、福島において会津を中心とせず郡山に新幹線を通すなどの処遇、つまりは磐越西線など会津へのアクセスの悪さなど、意図的に行なっていると思わずにはいられない様々なことがあります。やられた側は何も思わない。やった側は恐れている。とも思います。動画素晴らしかった。ありがとう。
@@michisuzu7 ご家族の歴史にまつわる貴重なお話を教えてくださりありがとうございます。また、お優しいお言葉、大変励みになります。
配信ありがとうございます。素晴らしい内容です!私のルーツは会津藩士です。曾祖父の長兄が鳥羽伏見の戦いで、その実父が戊辰戦争でさらに弟が白虎隊隊士として戦士しました。そうです、白虎隊といえば飯盛山で自刃した十九士が通説となっていますが、その一か月前に戦死した白虎隊隊士もいたのです。ここ数年、会津若松で白虎隊に関する講演をさせて頂いております。山川浩を取り上げて頂きありがとうございました。引き続き配信を楽しみにしております。
@@JE3PCR コメントありがとうございます。白虎隊に関する講演をされていらっしゃるのですか!そして、ルーツが会津藩士とのことで、飯盛山の前に戦死した白虎隊、、寄合隊でしょうか。本当にご先祖さまにまさに戊辰戦争で戦われた方がいらっしゃるのですね。貴重なお話を教えて頂いて本当にありがとうございます。動画を作ったことでこのようなことをコメントでお聞きすることができて、大変励みになります。ありがとうございました。
@ こちらこそありがとうございます。ご指摘の通り、曽祖父の弟佐々木新六郎は寄合白虎一番隊に所属しておりました。慶應四年八月に、新発田赤谷にて戦死しました。世間では、白虎隊は飯盛山で自刃した士中一番隊が有名ですが、同じ白虎隊でも各地で戦死した隊士も少なくありません。昨年の會津祭りでは、會津藩士子孫会として行列に参加させて頂きました。是非、白虎隊を取り上げて下さい。
@@JE3PCR 寄合白虎一番隊でしたか。実は、白虎隊の動画を一つ既に作っておりまして、その際に、飯盛山で自刃した士中二番隊の隊士達は、それよりも前に出陣した寄合隊を羨ましがって血気盛んな者もいたという記述なども見つけました。世間では確かに自刃した隊士ばかりが注目されますが、他で戦死した隊士や籠城戦に合流して戦い抜いた隊士や生き延びた隊士など、白虎隊士も大勢いますよね。またお手隙の時に、ruclips.net/video/uz4_M8PICVk/видео.htmlsi=dWbfwwiL8LoWrBTpもご覧頂ければ嬉しいです。
私の母方も会津藩士で越後口で戦ったようです。昔は親族一同で年に一度、東山温泉に集まっていました。
@ コメントありがとうございます。毎年親族で集まっていたとのこと、もしかすると皆様、郷里の歴史を自らのアイデンティティーとして大切に振り返る機会になっていたのかもしれないですね。貴重なお話をありがとうございます!
大変いい話でした。
@@かもめあおい コメントありがとうございます。大変励みになります☺️
今の会津出身者は松平容保公と公をつけて尊敬の念を表します。会津藩こそ江戸幕府の存続を一番思っていました。皆立派な人がおりました。感動です。薩長は東北の藩に何をしたか。今でも悔しいです。長州司令、世良修蔵の暗殺は喝采のできごとです。私は腰砕けの奥羽列藩同盟の盟主伊達藩の出です。
返信が遅くなって申し訳ありません。コメントありがとうございます。仙台のご出身でしたか!ご自身のルーツを知っていると歴史が本当に身近に自分ごとのように感じられますよね。旧幕府側の人間で立派な人も本当に多かったですよね。また取り上げたいなと思っております。
ほんと奥越列藩同盟の藩士たちには強い人がちらほらいる徳川四天王の子孫で庄内藩主の親戚であり裏切った藩に報復するために兵を引き連れて敵を打ち破った酒井玄蕃や仙台藩で東北のヤクザを率い夜戦ゲリラ戦法で戦った細谷直英、越後長岡藩で財政を建て直し敵に奪われた城を奪い返しガトリング砲で迎え撃った河井継之助、同じ会津藩の家老で籠城戦にて少数で薩長の軍勢を破り糧道(兵糧を運びいれる道)を確保し鬼官兵衛と恐れられた佐川官兵衛
@@瀬田ユウキ コメントありがとうございます!書いて頂いた藩士、みなさん本当に魅力的ですよね!酒井玄蕃もいつか動画作りたいなぁと思っていました。細谷直英、不勉強で知りませんでした…調べてみます。長岡藩の河井継之助もいいですね。佐川官兵衛は最後の最後まで降伏するのが悔しかったでしょうね、、、本当に魅力的ですよね。
@@古き日本と癒しの旅細谷さんは動画にする価値がありますよ彼の率いた部隊は「仙台からすに16ささげ(棚倉藩16人)なけりゃ官軍高枕」と新政府軍に歌われ大いに恐れたくらいに厄介な部隊ですし
@@瀬田ユウキ 少し概要を調べてみただけでもとんでもないエピソードの持ち主の天才ですね!取り組みたい人がたくさんいて、この時代を調べているとワクワクします。教えてくださって本当にありがとうございます!またよろしければお立ち寄りください☺️
興味ある会津藩の家老で一番若く、明治新政府でも活躍した山川大蔵には保科の血が流れています。
コメントありがとうございます。保科の血ですか! 山川家は高遠以来の家臣というのを読みました。いろいろ考えるとロマンがありますよね☺
山川浩のこと全く知りませんでした。ありがとうございました。52才の若さで、残念でした。
コメントありがとうございます。そうなんです、52なんて、お若いですよね。すごく濃く生きられた偉人だと思います。
この動画、よかったね!!!
知らない事ばかりです。戦後の日本の歴史教育で(色々と故意に隠し続けた部分もあったかもしれません)足りなかった部分を埋めてもらえて感謝します。
返信が遅くなって申し訳ありません、コメントありがとうございます。私も勉強中でございますが、そのようにおっしゃっていただけて大変励みになります。お優しいコメントありがとうございます。
凄く良かった、私の母は水戸藩の下級武士でした。
@@chibikensanta6 コメントありがとうございます。ご自身のルーツを大切にされていて素敵ですね☺️
分かりやすくまとめて説明してくださりありがとうございました。それにしても会津の人は西洋人の血が流れているように美形で驚きました。口、鼻、まゆ毛、額 多分ロシア系の祖先が入っているのでしょうか?どうもありがとうございました。そう言えば知り合いに福島出身のかたがいますが背も高く骨格もがっしりして肌が白くお顔もアジア系ロシア人のようです。 海外の勢力で日本人が殺し合った明維持時代、もう2度と繰り返したくないですね。
@@kilalamomiji コメントありがとうございます。祖先に外国の血はどうなのか分かりませんが、美形が多いなぁと私も思いました☺️お知り合いの福島の方もお綺麗とのことで、綺麗な方の多い土地柄なのかもしれないですね!本当に、日本人同士での殺し合いはも2度と繰り返したくないですよね。
会津で忘れてならないことの一つに「娘子隊」が有りますね。薙刀を振るって戦い薩摩兵は最初は刀剣をもって戦うも、余りの激しさと薙刀に押され銃撃したそうです。銃撃を受けて倒れた中野竹子は妹に「首」を断たせて持ち帰らせたとのこと。「武士(もののふ)の猛き心にくらぶれば 数にも入らぬ我が身ながらも」竹子が詠んだ歌だそうです。なぜか明治の元老となった志士たちより、幕府側の無くなった方たちに魅かれてしまいます。河井継之助、土方歳三、幕府遊撃隊の伊庭八郎も。
次は二葉の旦那であった梶原平馬を取り上げて下さい。私はずっと平馬を追いかけ、根室に平馬の墓参りへも行って来ました。あまり表に出ない人物ですが、いやいや非常に興味深い人物ですよ。
@@修若林 コメントありがとうございます。返信が遅くなり申し訳ありません。梶原平馬ですか。二葉の元旦那さんと認識していましたが、興味深い人物なのですね。また調べてみたいと思います。ありがとうございます!
会津の人間です山川はどうしても西郷と比べられるとちょっと・・・となってしまいます扱いづらさは同等でしたが悲惨な歴史を刻まれた会津ですが有能な人材が多かった事も後に証明された事が少しでも報われています会津の意地と誇りは今尚引き継がれていますまぁ傍から見たら変人ばかりに見えるかもですがw
@@dojyoaho コメントありがとうございます。返信が遅くなり申し訳ありません。会津に有能な人材が多かったこと、希望になりますよね。郷里の歴史やそれを知ってのアイデンティティが、意地や誇りとして、やる気の源となってるのかもしれませんね☺️
すばらしい。
@@UHH35679 ありがとうございます☺️
山川浩以外にも柴吾郎や松江さんもお忘れなく。
どれだけ素晴らしい能力あっても上は使いにくいタイプだったろうな能力あるのはわかる
@@timeday55 コメントありがとうございます。返信が遅くなり申し訳ありません。確かにコントロールしたい上からは使いにくいタイプだったかもしれませんね😂ただ、松平容保や谷干城など、忠義を尽くした上司もいるので、その辺り相性もあるのかもしれませんね…
聡明な山川は、会津戦争の復讐なんて考えていなかったんじゃないかな?当時の日本の状況を把握し、自分が出来る最大の貢献をしただけだったろう。
返信が遅くなって申し訳ありません。コメントありがとうございます。歌では復讐を詠んでいたとしても、もしかしたら何より日本の状況をよくすることを考えていたのかもしれませんね。
暗い話が多い、訓たれも多い柴五郎中佐の話の方が面白い。今後は、柴五郎中佐の北京55日籠城戦の話聞きたい。
長州人のズルさ爆発😂
@@家康徳田 コメントありがとうございます。きっと山川がそれを上回る強さだったことで、囮に使うつもりが度肝を抜かれたと思います😂
下北に移封されながらも信念に従い多くの民のために命をかけて生きるために戦った山川さんはこれこそ真の日本人だと思います。
返信が遅くなって申し訳ありません。コメントありがとうございます。すごく責任感も強くて実力もあって、素晴らしい人だったのだなと思います。
芝五郎も取り上げてください。
返信が遅くなって申し訳ありません。コメントありがとうございます。また勉強してみたいと思います!
やまかわひろです。
@@国士-c1b コメントありがとうございます。一文字違いですね☺️
会津の人々が?未だに、長州を?わかるか
素晴らしい動画。こうやってあまり知られていない偉人、日本発展に貢献した人物をもっと我々は知るべき。
@@joedaisuke7560 コメントありがとうございます。大変励みになります☺️小栗忠順を知って頂けてうれしいです。このような偉人をまたご紹介させてください!
戊辰戦争にとても心を惹かれます。幕府に忠義を尽くし破れた人たちの立派な生きざま。
本当に惜しい人たちを失くしたと思います。
日光の大笹牧場へ行く途中に六方沢橋という大きな橋があり、説明板に、幕府側の武士たちが見つかるのを恐れて,街道ではなく橋の下の山中を歩いて会津に向かった、ということが書かれ、季節は寒い時期だった。それを見た時も胸が塞がる思いでした。
@@山さくら コメントありがとうございます。私も戊辰戦争や、幕府に忠義を尽くして散った人たちの生き様に心惹かれる1人です。
説明板にそのような記載があるのですか…寒さが自分の身にも感じるような気になり、情景が思い浮かびます。
貴重なお話を教えてくださり、大変ありがとうございます。
我が家は会津藩士です。私の曾祖父は禁門の変で戦いました。曾祖父の手記には「長賊と…」という表現があります。会津籠城戦いでは高祖父が戦死。落城後は下北に移されましたが、そこでの暮らしは厳しく、妻子は病死。函館に移りました。
家老を輩出し続けた名門の出である大蔵。
結果的に負け組ではあっても、その地位と実力に相応しい人生だったのではないでしょうか?
「矜持」そんな言葉が最も似合う人ですね。
また、妹の捨松さんも津田梅子と協力して女子教育に邁進したのは有名ですが、逆境の時代にそれぞれの立場や性差を超えて活躍されたことは素晴らしいことです。
私は県民として山川一族を誇りに思います。
@@wisterieskampf6554 コメントありがとうございます。福島の方でしたか!
素晴らしい人達だと思います。
もっと知られて欲しい、一族ですよね。
素晴らしい内容のものでした。激動の時代に身を捧げた方々の息遣いが令和の御代にも聞こえてきます!私がいるばにも大山巌のぼちがありそこには、山川捨て末の墓もあり静かに歴史の移り変わりを見ながら埋葬されています!😮
@@淑子東泉 コメントありがとうございます。大変励みになります☺️大山夫妻の墓地がお近くにあるのですか!激動の時代から現代につながる歴史の息吹を感じる環境ですね。
熊本地震の際、阿蘇方面の救助に参加したところ、偶然佐川官兵徫の墓を見つけました。会津の猛将が警視庁抜刀隊として、こんな山中で亡くなった事、そして立派な墓が建てられ供養されている事に驚きと日本人の素晴らしさを感じました。
@@古き日本と癒しの旅有難うございます、私は、岡崎に生まれて、名古屋で育ち、福島へ嫁ぎました。主人との縁に驚き城を巡りました。悲しい宿命に驚きながら、丹羽頼母や松平容保のその後を追い、会津や二本松のその後を調べて嫁の重責を果たして、老後の今生家名古屋に暮らして居ます。会津も二本松も名古屋も徳川からの尊い先祖が生き学び、守り築き上げた土地であり凄まじい歴史の逆流の試練があった事を、実感し、不幸を嘆き悼んで居りました。しかし会津も二本松も岡崎も地名が同じ処が多く人々も実直、剛健で親切、名誉を大切に素朴に生きている方ばかりでした。どうか悲しい歴史が温かい光により拭い去られて、共に明日の日本の若者の為に見事に再生できます様に心底より祈らせて頂きます。有難う、福島の皆様愛知の人々、日本人は未来を大切に生きます。
@@國武浩幸 コメントありがとうございます。熊本地震で応援に行かれた時に佐川官兵衛のお墓に遭われたのですか。立派なお墓が会津から離れた地でも建てられているなんて、多くの人の心を動かした人だったということなんですね。貴重なお話を教えてくださり、本当にありがとうございます。
@@遠藤純子-s3m コメントありがとうございます。岡崎、名古屋、福島とお過ごしになってきたのですね。所縁のある土地でその歴史を感じる時、自分が今生きているその流れをより強く意識しますよね。
私も会津藩が守った京都が父の出身であったり、私自身も名古屋近郊で育ったりと、頂いたコメントで同じように想いを馳せることが出来ました。
貴重なお話、大変ありがとうございました。
あらためて山川家の人々と山川大蔵の偉大さを知りました。ありがとうございました。そして柴五郎をはじめ、旧会津藩出身者が明治以降の歴史に影響を及ぼしたことを痛感します。
@@halbaal コメントありがとうございます。柴五郎も会津出身で明治以降歴史に影響を及ぼした人物ですよね。山川の東京での住まいに寄宿した際の柴五郎との逸話にも笑ってしまうものがありました。
優秀な人が多かったということ、きちんと見ていきたいなと思っております。
容保公以下、会津藩の方々こそ、誠の忠義の人々であったと尊敬いたしております。
@@jensuis コメントありがとうございます。そうですね、みなさん、忠義の人々ですよね。
もっと自分たちの藩のことだけを考えれば、巻き込まれなくて済んだのかもしれないですし、もどかしさを感じる部分もありますが、それでも最後まで義理を通した生き方に心惹かれるなぁと個人的に思っております。
涙なくして聴けません。猪苗代湖の野口英世記念館、青森下北の斗南藩跡、網走監獄での政治犯、等、近代史をしると涙が湧いてしまいます。😊
@@水木一成 コメントありがとうございます。そこで苦難の日々を過ごした人々を感じる史跡を、たくさん、ご自身の目で見て来られたのですね。貴重な思い出をお話くださり本当にありがとうございます。
会津戦争後を詳しくしりたくて拝見しました。
捨松ってドラマ化されてもいい人生なんですね!!
「地域間の感情対立が…」の最後のコメントに心を打たれました!!
素晴らしい動画でした!!
コメントありがとうございます。
捨松、私も一旦台本書いていたくらい、とてもドラマティックだと思います!(ちょっと頓挫してます・・)
そうなんですよね、感情的対立・・あるのですが、それでもこのように、歩みを止めなかった人が報われて欲しいなという思いがあります。
お優しいコメントありがとうございました。大変励みになります。
大変良いお話と人物を知れました!感謝します。会津君子の鏡のような方ですね。さすが保科正之の家訓を基礎にしたお家柄の藩士でした。🙏
返信が遅くなって申し訳ありません。
コメントありがとうございます。責任感の強さなど、本当に素晴らしい人物だったと思います。
初めてチャンネル拝見しました。
斗南藩を率いていたのが、若き山川ひろしだったのですね。
会津藩出身の方たちは、私の出生地の余市や幕末は野付半島の警備隊で亡くなっていたり、全国各地で本当にご苦労されていたんですね。
素晴らしい動画をありがとうございました😂
@@滝代文男 コメントありがとうございます。出生地が余市でいらっしゃるのですね!ウイスキーの町ですね。
そうなんですよね、会津藩出身者は斗南藩として青森や北海道で本当に苦労されたのだと思います。その中からも活躍されたと考えるとよりすごいなぁと思って動画を作りたいと思いました。
励みになるコメント大変ありがとうございました。
維新の会津藩の重いテーマに珍しい女性のナレーションでした。珍しさと違和感も解説の良さが上回り最後まで集中できました。とても良かったです。飯盛山や二本松少年隊の地を訪れた記憶も甦りました。次は小栗上野介をじっくり見させて頂きます。
@@11nisimuku8 コメントありがとうございます。まだまだ勉強中ではありますが、そのように言っていただけて大変励みになります。飯盛山や二本松も訪れたことがあるのですね。会津については、会津戦争後〜昭和にかけての鶴ヶ城についてや、白虎隊についての動画も作っております。
またお手隙の時にお立ち寄りいただければ嬉しいです☺️
素晴らしい解説動画ありがとうございます。幕末の歴史を辿ると、会津の理不尽な状況は心から離れることはありません。今も遺恨が残るわけです。
どうしても会津、長州、薩摩と大きな単位で考えてしまいますが、個人ではお互いを認め、尊敬していた繋がりがあった事も忘れてはならないと思います。
會津藩士、秋月鄭次郎と長州藩士、奥平謙輔が繋がっていたからこそ、山川健次郎はアメリカへ留学して物理学の権威になれたわけです。
その後の会津藩の人々の活躍を見ると、当時の教育レベルの高さを感じます。健次郎と捨松が英語で交わした手紙を見たことがありますが、筆記体が達筆すぎて読めませんでした(笑)
コメントありがとうございます。
幕末の会津の状況は本当に理不尽で気の毒だなぁと感じます。年月が経とうとも遺恨が残っているのは感じますよね。ただ、おっしゃる通り、個人間では繋がりや敬愛の感情、感謝などが存在しているのも事実ですよね。
健次郎と捨松の手紙をご覧になったのですか!筆記体が達筆すぎる兄妹のやりとり・・素敵ですね!(もしかして捨松が帰国後に愚痴をこぼしてたお話でしょうか・・・)
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たしかその様な内容だったかと思います。健次郎が諭しているような。
まったく、知りませんでした。情けない、、とことどころ、聞いた名が出てはくるものの、ああ、その人が、そうだったのかあ、、など。非常によかったっす。
@@NETDOUGA コメントありがとうございます。私も調べながら学びながらですが、そのように言っていただけて、動画作成の励みになります☺️
丁寧な解説で大変興味深く拝見させていただきました。土佐藩士谷干城が登場しますが、彼ら土佐藩兵をを率いて会津戦争に参戦した乾(板垣)退助も、矢折れ刀尽きて遂に開城と降伏を申し出た容保公の申し入れを受け、敗将となった会津公の面目を保つよう心を配りながら礼を尽くして降伏を受け入れ、土佐藩と会津藩の間に遺恨を残さない形で戦後処理を行いました。(因みに谷干城は土佐尊王党に参加しており、投稿して来た近藤勇の斬首を主張しています。)
後年の征韓論論争で板垣と谷の立場は変わりますが、政府から身を引き自由民権運動を展開する板垣と。政府に残留して西南戦争で戦功を上げ華族となった谷の第1回帝国議会での活躍はなかなか面白いので。坂本龍馬の陰に隠れがちな彼らにも光を当てていただければ幸いです。
@@skalplatoonraven コメントありがとうございます。土佐藩は松平容保の降伏の際の面子を保って遺恨を残さないように配慮したのですね。同時に、近藤勇の助命嘆願は聞き入れなかったのは、谷干城だったのですね。知りませんでした。
大変勉強になりました。またよろしければお気付きのこと、ご教授頂ければ幸いです。
私の母は会津出身です。妻は東京生まれですが、義理父母は九州出身でした。双方の両親の初顔合わせ前には、義理父より、戊辰戦争の恨みはないかと確認がありました。うちの母に聞いたところ、全く無いとのことでした。今では両家とも仲良くしています。ただ、個人的に西軍が本当に意地悪だと思うことは、福島において会津を中心とせず郡山に新幹線を通すなどの処遇、つまりは磐越西線など会津へのアクセスの悪さなど、意図的に行なっていると思わずにはいられない様々なことがあります。やられた側は何も思わない。やった側は恐れている。とも思います。動画素晴らしかった。ありがとう。
@@michisuzu7 ご家族の歴史にまつわる貴重なお話を教えてくださりありがとうございます。また、お優しいお言葉、大変励みになります。
配信ありがとうございます。素晴らしい内容です!
私のルーツは会津藩士です。
曾祖父の長兄が鳥羽伏見の戦いで、その実父が戊辰戦争でさらに弟が白虎隊隊士として
戦士しました。
そうです、白虎隊といえば飯盛山で自刃した十九士が通説となっていますが、その一か月前に戦死した白虎隊隊士もいたのです。
ここ数年、会津若松で白虎隊に関する講演をさせて頂いております。
山川浩を取り上げて頂きありがとうございました。
引き続き配信を楽しみにしております。
@@JE3PCR コメントありがとうございます。白虎隊に関する講演をされていらっしゃるのですか!そして、ルーツが会津藩士とのことで、飯盛山の前に戦死した白虎隊、、寄合隊でしょうか。
本当にご先祖さまにまさに戊辰戦争で戦われた方がいらっしゃるのですね。
貴重なお話を教えて頂いて本当にありがとうございます。動画を作ったことでこのようなことをコメントでお聞きすることができて、大変励みになります。ありがとうございました。
@
こちらこそありがとうございます。
ご指摘の通り、曽祖父の弟
佐々木新六郎は寄合白虎一番隊に所属しておりました。
慶應四年八月に、新発田赤谷にて戦死しました。
世間では、白虎隊は飯盛山で自刃した
士中一番隊が有名ですが、同じ白虎隊でも各地で戦死した隊士も少なくありません。
昨年の會津祭りでは、會津藩士子孫会として行列に参加させて頂きました。
是非、白虎隊を取り上げて下さい。
@@JE3PCR 寄合白虎一番隊でしたか。実は、白虎隊の動画を一つ既に作っておりまして、その際に、飯盛山で自刃した士中二番隊の隊士達は、それよりも前に出陣した寄合隊を羨ましがって血気盛んな者もいたという記述なども見つけました。
世間では確かに自刃した隊士ばかりが注目されますが、他で戦死した隊士や籠城戦に合流して戦い抜いた隊士や生き延びた隊士など、白虎隊士も大勢いますよね。
またお手隙の時に、ruclips.net/video/uz4_M8PICVk/видео.htmlsi=dWbfwwiL8LoWrBTp
もご覧頂ければ嬉しいです。
私の母方も会津藩士で越後口で戦ったようです。昔は親族一同で年に一度、東山温泉に集まっていました。
@ コメントありがとうございます。毎年親族で集まっていたとのこと、もしかすると皆様、郷里の歴史を自らのアイデンティティーとして大切に振り返る機会になっていたのかもしれないですね。
貴重なお話をありがとうございます!
大変いい話でした。
@@かもめあおい コメントありがとうございます。大変励みになります☺️
今の会津出身者は松平容保公と公をつけて尊敬の念を表します。
会津藩こそ江戸幕府の存続を一番思っていました。皆立派な人がおりました。感動です。薩長は東北の藩に何をしたか。今でも悔しいです。長州司令、世良修蔵の暗殺は喝采のできごとです。私は腰砕けの奥羽列藩同盟の盟主伊達藩の出です。
返信が遅くなって申し訳ありません。
コメントありがとうございます。
仙台のご出身でしたか!ご自身のルーツを知っていると歴史が本当に身近に自分ごとのように感じられますよね。旧幕府側の人間で立派な人も本当に多かったですよね。また取り上げたいなと思っております。
ほんと奥越列藩同盟の藩士たちには強い人がちらほらいる徳川四天王の子孫で庄内藩主の親戚であり裏切った藩に報復するために兵を引き連れて敵を打ち破った酒井玄蕃や仙台藩で東北のヤクザを率い夜戦ゲリラ戦法で戦った細谷直英、越後長岡藩で財政を建て直し敵に奪われた城を奪い返しガトリング砲で迎え撃った河井継之助、同じ会津藩の家老で籠城戦にて少数で薩長の軍勢を破り糧道(兵糧を運びいれる道)を確保し鬼官兵衛と恐れられた佐川官兵衛
@@瀬田ユウキ コメントありがとうございます!
書いて頂いた藩士、みなさん本当に魅力的ですよね!酒井玄蕃もいつか動画作りたいなぁと思っていました。細谷直英、不勉強で知りませんでした…調べてみます。
長岡藩の河井継之助もいいですね。
佐川官兵衛は最後の最後まで降伏するのが悔しかったでしょうね、、、
本当に魅力的ですよね。
@@古き日本と癒しの旅細谷さんは動画にする価値がありますよ彼の率いた部隊は「仙台からすに16ささげ(棚倉藩16人)なけりゃ官軍高枕」と新政府軍に歌われ大いに恐れたくらいに厄介な部隊ですし
@@瀬田ユウキ 少し概要を調べてみただけでもとんでもないエピソードの持ち主の天才ですね!取り組みたい人がたくさんいて、この時代を調べているとワクワクします。教えてくださって本当にありがとうございます!またよろしければお立ち寄りください☺️
興味ある会津藩の家老で一番若く、明治新政府でも活躍した山川大蔵には保科の血が流れています。
コメントありがとうございます。保科の血ですか! 山川家は高遠以来の家臣というのを読みました。いろいろ考えるとロマンがありますよね☺
山川浩のこと全く知りませんでした。ありがとうございました。52才の若さで、残念でした。
コメントありがとうございます。そうなんです、52なんて、お若いですよね。すごく濃く生きられた偉人だと思います。
この動画、よかったね!!!
知らない事ばかりです。
戦後の日本の歴史教育で(色々と故意に隠し続けた部分もあったかもしれません)足りなかった部分を埋めてもらえて感謝します。
返信が遅くなって申し訳ありません、コメントありがとうございます。私も勉強中でございますが、そのようにおっしゃっていただけて大変励みになります。お優しいコメントありがとうございます。
凄く良かった、私の母は水戸藩の下級武士でした。
@@chibikensanta6 コメントありがとうございます。ご自身のルーツを大切にされていて素敵ですね☺️
分かりやすくまとめて説明してくださりありがとうございました。それにしても会津の人は西洋人の血が流れているように美形で驚きました。口、鼻、まゆ毛、額 多分ロシア系の祖先が入っているのでしょうか?どうもありがとうございました。そう言えば知り合いに福島出身のかたがいますが背も高く骨格もがっしりして肌が白くお顔もアジア系ロシア人のようです。 海外の勢力で日本人が殺し合った明維持時代、もう2度と繰り返したくないですね。
@@kilalamomiji コメントありがとうございます。祖先に外国の血はどうなのか分かりませんが、美形が多いなぁと私も思いました☺️
お知り合いの福島の方もお綺麗とのことで、綺麗な方の多い土地柄なのかもしれないですね!
本当に、日本人同士での殺し合いはも2度と繰り返したくないですよね。
会津で忘れてならないことの一つに「娘子隊」が有りますね。薙刀を振るって戦い薩摩兵は最初は刀剣をもって戦うも、余りの激しさと薙刀に押され銃撃したそうです。銃撃を受けて倒れた中野竹子は妹に「首」を断たせて持ち帰らせたとのこと。「武士(もののふ)の猛き心にくらぶれば 数にも入らぬ我が身ながらも」竹子が詠んだ歌だそうです。なぜか明治の元老となった志士たちより、幕府側の無くなった方たちに魅かれてしまいます。河井継之助、土方歳三、幕府遊撃隊の伊庭八郎も。
次は二葉の旦那であった梶原平馬を取り上げて下さい。私はずっと平馬を追いかけ、根室に平馬の墓参りへも行って来ました。あまり表に出ない人物ですが、いやいや非常に興味深い人物ですよ。
@@修若林 コメントありがとうございます。返信が遅くなり申し訳ありません。梶原平馬ですか。二葉の元旦那さんと認識していましたが、興味深い人物なのですね。また調べてみたいと思います。
ありがとうございます!
会津の人間です
山川はどうしても西郷と比べられるとちょっと・・・となってしまいます
扱いづらさは同等でしたが
悲惨な歴史を刻まれた会津ですが有能な人材が多かった事も後に証明された事が少しでも報われています
会津の意地と誇りは今尚引き継がれています
まぁ傍から見たら変人ばかりに見えるかもですがw
@@dojyoaho コメントありがとうございます。返信が遅くなり申し訳ありません。会津に有能な人材が多かったこと、希望になりますよね。
郷里の歴史やそれを知ってのアイデンティティが、意地や誇りとして、やる気の源となってるのかもしれませんね☺️
すばらしい。
@@UHH35679 ありがとうございます☺️
山川浩以外にも柴吾郎や松江さんもお忘れなく。
どれだけ素晴らしい能力あっても
上は使いにくいタイプだったろうな
能力あるのはわかる
@@timeday55 コメントありがとうございます。返信が遅くなり申し訳ありません。
確かにコントロールしたい上からは使いにくいタイプだったかもしれませんね😂
ただ、松平容保や谷干城など、忠義を尽くした上司もいるので、その辺り相性もあるのかもしれませんね…
聡明な山川は、会津戦争の復讐なんて考えていなかったんじゃないかな?当時の日本の状況を把握し、自分が出来る最大の貢献をしただけだったろう。
返信が遅くなって申し訳ありません。
コメントありがとうございます。
歌では復讐を詠んでいたとしても、もしかしたら何より日本の状況をよくすることを考えていたのかもしれませんね。
暗い話が多い、訓たれも多い
柴五郎中佐の話の方が面白い。
今後は、柴五郎中佐の北京55日籠城戦の話聞きたい。
長州人のズルさ爆発😂
@@家康徳田 コメントありがとうございます。きっと山川がそれを上回る強さだったことで、囮に使うつもりが度肝を抜かれたと思います😂
下北に移封されながらも信念に従い多くの民のために命をかけて生きるために戦った山川さんはこれこそ真の日本人だと思います。
返信が遅くなって申し訳ありません。
コメントありがとうございます。
すごく責任感も強くて実力もあって、素晴らしい人だったのだなと思います。
芝五郎も取り上げてください。
返信が遅くなって申し訳ありません。コメントありがとうございます。また勉強してみたいと思います!
やまかわひろです。
@@国士-c1b コメントありがとうございます。一文字違いですね☺️
会津の人々が?未だに、長州を?わかるか